青空を目指して2

どこまでも続く日々日常。ゲーム・音楽好きのおっさんの半生。日々日常とちょっとだけ思ったことの日記。

部屋と断舎利と私

家や部屋は人そのもの。家庭そのもの。自分はそう思っている。そこにはその人の生きてきた歴史が構築され、その人の価値観、こだわり、想い、そういったものが全て詰まって構築されている、と常々思っている。ゴミ屋敷なんかもそう。ああいう人は何か大事なものにこだわるあまり、何でも求めてしまう。そしてそれを全て取り込み自分の城を固め周り全てを拒否する。彼らにとってそのごみの一つ一つは自分を構築する必要な要素であり廃棄などもっての外なのだ。
オタク趣味系の人もそういう傾向にある。オタクである自分のステータスを高めることの具現化がグッズの溜め込みになる。自分で自分のステータスが高まることを喜び、それを相手に誇示できることを喜ぶ。だから彼らは溜め込む。そしてそれは彼らの心そのものなのだ。たまに最近見かける嫁が勝手にグッズを捨てるというのは、その心を全て破棄する行為でありその人の心を壊す行為でしかない。彼らの人格構成はそうなってるんだ。
自分も例外もれず若い頃から溜め込み型の人間だった。捨てられない人間だった。しかし30代超えたあたりからなんか違う、と思い始めた。いくらためても満たされない。グッズは裏切らないが満たしてもくれない。いくら部屋いっぱいに物を満たしても実際の心は満たされない。むしろ身動きが取れなくなり、視野が狭くなり、社会から孤立してしまうと気付いた。それでも思い入れを込めて貯めたものは自分の心そのもの。それを破棄するのは最初は辛かった。しかし捨て始めて気づく。あー、楽だって。俺はなんでこんなことにとらわれていたんだろう?と。
まぁ実際にはいつか役に立つはずだ、なんて思ってたりしたんだけど現実はそんなことは無い。ゴミはゴミw何か必要になったらまたその時改めて用意すりゃいいんだ。幸いオタク系の物って昔は入手しなかったらずーっと入手不可能、みたいなアイテムがごろごろしてたが、今はそんなことも無い。自分で保留しておく理由なんてない。
さらに言えば年取って行くと他にやらないきゃいけないことも増えるし、先も見えてきてもうこんなもの一生必要にならないだろうな、ってわかってしまう。悟ってしまった。こだわりを、執着を捨てよだw
アイテムを捨てたって自分の心はちゃんと育っている。アイテムの破棄は自己否定ではない。身軽な生活を手に入れるだけだ。心にスペースを開ければそこにまた新しい何かが入り込んでくるかもしれない。そういう前向きな思いが必要なんだ。
ただ同様な理由で部屋に何も置かなさすぎる人たちもベクトル正反対で異常だと思うよw心が空っぽだと思う。断舎利もやりすぎは良くない。それは最終的には全ての執着を捨てることになりそれは悟りを開くことだ。つまり仏にでもなるってことだ。生きることまで捨てちゃダメだと思うよ。