青空を目指して2

どこまでも続く日々日常。ゲーム・音楽好きのおっさんの半生。日々日常とちょっとだけ思ったことの日記。

w笑いと恐怖の考察

ギャグとホラーについての考察
 笑いと恐怖というものの意味

笑いも」恐怖」という感情は」その本質は同じものだと思う・それは緊張の解放。張り詰めて極限まで押し潰されたた心の解放、それのベクトル方向の違い
両方とも現実の破壊、現実というのは常識、日常ヲ超えること
日常を超えたものが平和、安息だった場合は笑い、それが破壊、痛み
死などをを思わせるものだった場合は人は恐怖を覚えるんだと思う、
両方とも予想の斜め上、想像よりはるか上回る、乖離があった方が強い笑いや恐怖に至る(マイナス方向への解放。
。恐怖は生命の終息を思わせる感情、笑いは、安心安堵を思わせる感情。プラス方向への解放
そう考えると両方に必要な感覚は、対象者の考える日常常識感というものだと思う、対象者が」作り手の想定する日常感
 常識、ヲ持っていない場合は、強い乖離を産みだせなくなる。これは考えてみればわかる、
いつも笑みがこぼれるような環境、命が軽い現場死と直面しているような現場にいる人は日常と作り手の産みだす非日常と乖離しないし、
その人の想像する現象の方がはるか上をいくような場合は恐怖とはならない、いつもぐちゃぐちゃの死体が運ばれてくるような現場にいる人はきっとどんなスプラッター映画を見ても嫌悪感恐は抱かないだろう作り手の産みだすものよりはるかに過酷を見てきているであろうし、女性がスプラッター系の映画に強いのも合点がいく女性はとにかく血が日常に存在するし個体として血などに強くないと種を守れないからだ。母性本能というものだろうか母性本能は恐怖の対象物に怖がって逃げていたら子を守れない逆にこれは恐怖に敏感ということにもつながる。恐怖を感じられないと種を守れない。これも本能だろう。逆に男は恐怖に対する体制はある程度強そうに思える未知のもの命を奪うものに対しては本能的に戦う義務があるのだ、そしてその結果流す自分の血は痛みであり死だそれは同時に種の崩壊であるから当然怖いものだ、ただ男にとって血は日常的には無い樹🆊制は痛みに強くないといけないけないのだ女性という生物は、最終的に出産という血と痛みの極致のような体験に耐えるように設計されているに違いないからだ
戦いの末の結果でありむしろ高揚感があるものだろう、自分の血にいちいち怖がっていたら戦いに負ける、しかし、同時に自分の血、肉体破壊強大
な敵未未知の敵に恐れを抱かずぶつかっていくのも死に直結する、しかしそれを全面否定ばかりしていては戦えない。男ははきっとそういうモンスターに対する耐性は強いのだと思う。男の本能は戦いと破壊だろうそれが男の究極の使命だ相手mp肉体破壊や血は恐怖してはならない、むしろ求めていくものなのだ、ソレが男の性(さが)だ。

そう考えると男はホラー映画を本能的に求めるしそれは安全な戦いの訓練だ。
助成は恐怖を体験する、克服する必要は無い。スラッシャー系は嫌悪だろうし、スプラッターは本能的に強いし、こっちのほうが、種を守る訓練になるだろう、とにかく女性は血や肉体破壊されたものを直視できるように訓練する必要性があったのだ、そうしないと子や、戦いで傷ついた、戦士を癒せないからだ
こうして考えていくと人はホラーを本能的に求める、しかし性別により
求める目的は違うのだろう。女性とホラー映画を見るのにモンスタースラッシャーやオカルト、等を選ぶのは間違いだし、男性にスプラッターをを見せるのも違う、となる、ただし、両方とも種を維持するには必要な要素(死を怖がらない立ち向かう)ということだと思うのでホラー映画はデートむびーとしていろんな本能を刺激していいものなのかもしれない、種の存続を強く刺激しそうだしなあ

そして笑いだ、これも、日常を破壊するもので間違いない、
しかしこっちは命の危機を感じさせない想像を超える、日常常識を超えるものだ、だから人は、ほっとした時に自然に
笑みが出るのだ。これは悪い方向に考えを巡らせていた時に、安心、平和という、強い現実を知った時に起こる自然な本能の肉体的反応だろう
だから笑いを人は本能的に求め、辛い厳しい日常を生きている人は笑いという安息、安心、解放を求めるんだと思う、現在お笑いがもてはやされるのもあまりに人の心がプレッシャーにさらされ続け解放を求めているんだろう、そしてその開放の汎愛ベクトルにあるのがホラーなんだろう、安全な恐怖という心の解放、

こういった心のベクトル方向の違いの解放というものであるために

遊園地、テーマパークといった兵平和と笑いの国の中に昔から、
見世物小屋お化け屋敷、絶叫マシンといった逆方向のものが成立しているんだろう。
それこそ緊張と解放という強い落差だ。それゆえ余計に人は強い楽しみ安心が残る。

コメディーとホラーを同時に求める世の中は現在社会の不健全さの象徴じゃあないかと思う。

こういうふうにベクトル論で考えると見えてくる現象がある1980年代ホラー映画全盛期に度を超えたホラー映画は笑えて来る
と言われる現象があった。自分の記憶では「リ・アニメーター」「邦題)死霊のしたたり」なんかの評論で見た記憶あり。これはゴムで考えるとわかりやすい。マイナス方向に強く引っ張ったゴムを離すとプラス方向に行くだろう。
之と同現象が、お笑いの世界でも起きた、これは一時期笑いの天才として、もてはやされた「松本人志」氏のお笑いだ。彼の産みだすプラス方向のゴムは、一周してマイナス方向にに向かいだしたそれはもう狂気じみた理不尽な世界に世界に突入しもう恐怖に突入していった、恐怖を超えると笑いになるのだ。
そして松元人志の笑い世界はどんどんレベルが高くなり笑いが分かるかどうか?ってところにたどり着く。これは日常や常識を破壊するのお笑いなのだと考えればわかりやすいお笑い人が万人に笑いを与えるためには世間一般の常識が必要なのだ、ゆえに良く習った作りこまれた笑いは強い常識との乖離が必要となる。天然、と言われるお笑いは、日常世界とのギャップが何も作らなくても発生している人たちだろうと思う。職業として社会人としてやっているうちにその非常識は失われてゆきそれを取り戻さないとあえて非常識を作り出す
でもそれは日常の常識、社会を十分に知らないとギャップを作り出せなくなる、知れば知るほど天然性は失われてゆくという矛盾。ゆえに、お笑い世界に長くいる人は、最終的にみんな、小難しく社会常識をコメントするようになるのでは、と考察される。
松本人志の笑いを理解するためには彼のもつ常識感を理解できるレベルに達していないといけないのだ。ギリギリタイトロープの日常感。世の中を考えずに無意識にだらだら生きている人にhs彼の笑いはもう理解できないのだ。アメリカのコメディーが日本人には通用しないように。
彼のその綱渡りの世界観をアートとして表現しちゃったのが、彼の映画だろう、アートというのは常にそうだ、万人には理解されない。ピカソがそうなように、ジミー大西が理解不能なように。ジミー大西が面白いのは、彼がずっと、これん🆊心象世界が見せるアートの様にいつまでも天然の不条理さを失わなく、一般人との乖離が大きいからだろう。しかし松本人志は違ったベースにはあんな不条理さを持っていながらあまりにもか賢かった・・・。それの学習能力の速さと、手ベルの高さに時代はついて行けなかったと思える残念なことに彼のアートを表現し得る舞台はお笑いにしかなかったんだろう映画界に彼のアート表現を理解できる人はいなかったんだろうし世間は彼の映画をアートとして見ずにお笑い作品だろうというレッテルを張ることしかできなかったんだろう。
現代アートが万人に理解できるか?そして天災は自分の生き方までをアートにして商売にならない、としてしか理解できない商業人に切り捨てられた。彼の最後のアートはきっとじゅぷ式の枠に収まらない一世一代の破天荒だったんだろうじゃあなかろうか。

ジャーナリング

昨日夢で見た、一度も考えたことも無い、っ昨日そんなのを考える気かけになったI/O情報もパッと思いつかないそんな見たことも無い面白そうなゲームネタ、を忘れないうちに朝一でPCに記録。記録するとまた次々と連鎖的に芋ほりでもしているかのように出てくる。どこにこんなもんが詰まっていたんだ。ついでに先日同じように出てきたゲームネタの記録を開けてみたら、また次々とどんどん湧いて出てくる。俺の中の中二はまだ生きているなあ。っていうか、俺の中で生き延びた半分は中二だったのかもしれないな、そりゃあ生命力しぶといわ。54歳のしょぼくれてゆかれ切ったおれじゃあなくぴちぴちの生命力の溢れた俺だからな。と書きながら、まだ芋が出てくる。止まらねえ。中二の生命力の背後には54歳の俺のライブラリがついてるんだしな最強タッグだ。
昨日は気楽なお休み金曜だったはずなのに、今日もやけに左足が痛いと思ったら、もう起きて二時間も夢中で座って書き続けているもんな休憩しろよ、もう54の体なんやぞしかも片麻痺!

だか
らな

[雑感]リハビリ

自分はどうも「リハビリ」と「機能回復」の意味を混合して勘違いしている節がある。多分片麻痺人の多くにそういうところを感じている。特に手のリハビリに関して。
言葉の意味的に

リハビリテーション(リハビリ)とは、病気やケガ、高齢などにより心身の機能が低下した人が、再び自分らしい自立した生活や社会復帰を送れるようにするための取り組み
とあって、リハビリしたからと言って、手の機能をを回復、(所謂、動き出す)ということを狙っているわけではない。確かに動けば、生活の質は著しく上がるのは事実だが、この動かない手の体でいろんなことができるようになれば(今右手でキーボードとマウス使ってPCをつかえていることは十分リハビリ結果なわけです。)足に関しても左足が動かなくても室内を杖で移動できる。これで十分リハビリなわけです。死してこれは特に機能回復しているわけではなく、この体での動作の学習、なんですよね。左足が自由自在に動き出したわけじゃあない。動かない足を使って歩くまねごとを覚えたわけなんですよね。これは、ある意味義足を使っての歩き方を覚えたのと同じなんだろうなと思うわけです。結局言いたいことはリハビリ=機能回復なわけではないということだ。結構このことを勘違いしがちだ。実際のところ、リハビリ病院などでも、そういうことを説明せずに歩く練習=歩く機能回復、手のリハビリ=手の機能回復としてやっている感じを受ける。足は機能回復が無くても歩くふりで十分生活の役に立つからいいけど手の場合ある程度の機能がないと、生活に組み込めないのが致命的なんだよね、自分なんかはどちらかというと痙縮で握りこむタイプの麻痺だから無理やりヨーグルトの容器を持たせて、安定して食べたり、歯ブラシを無理やり持たせて歯磨き粉を付けるのに使うくらいが日常に組み込ませることができているが、これが弛緩性の麻痺だと本当に生活に組み込むのは難しいのだろうなと思う。そう考えると手のリハビリなんてのは、こういうケースでて手を使ってみましょう、と現実的なケースを想定してそのケースを実現弦できるようにするのがリハビリなんだろうと思う。小さな出来ることからコツコツ積み上げていくのが大事とかの二宮金次郎先生も言うているのだが、手の場合、この小さな出来ることがわかんねえんだよな、今だと本当に雨の袋などを持たせて(挟ませて)はさみで切る支えにするのが一番よく使っているかなあとは歯ブラシ。もっといろんなケースに使いたいねえ。

雑感・ゲームネタ

なんか朝から、作ってみたいゲームのネタが泉のごとくあふれ出してくる。そして一度湧き出したら、それが次の水を引っ張り出して止むことがない。まさにアイデアの線状降水帯。ほんと中二の少年がぼくのかんがえたすごいげーむ、状態だ。夢が暴走。これをうまく拾って丁寧にまとめることができないと現実のものにはならない。そのコツコツができるかどうかなんだよなあ。本当のクリエイターはそのコツコツを「好き」というパワーで突き進める人なんだろうと思う。大人になると、すぐにそこにいらない否定的なものをくっつけて行って「好き」の力を削いで行ってしまう、この原動力を維持できないとなあ。