ギャグとホラーについての考察
笑いと恐怖というものの意味
笑いも」恐怖」という感情は」その本質は同じものだと思う・それは緊張の解放。張り詰めて極限まで押し潰されたた心の解放、それのベクトル方向の違い
両方とも現実の破壊、現実というのは常識、日常ヲ超えること
日常を超えたものが平和、安息だった場合は笑い、それが破壊、痛み
死などをを思わせるものだった場合は人は恐怖を覚えるんだと思う、
両方とも予想の斜め上、想像よりはるか上回る、乖離があった方が強い笑いや恐怖に至る(マイナス方向への解放。
。恐怖は生命の終息を思わせる感情、笑いは、安心安堵を思わせる感情。プラス方向への解放
そう考えると両方に必要な感覚は、対象者の考える日常常識感というものだと思う、対象者が」作り手の想定する日常感
常識、ヲ持っていない場合は、強い乖離を産みだせなくなる。これは考えてみればわかる、
いつも笑みがこぼれるような環境、命が軽い現場死と直面しているような現場にいる人は日常と作り手の産みだす非日常と乖離しないし、
その人の想像する現象の方がはるか上をいくような場合は恐怖とはならない、いつもぐちゃぐちゃの死体が運ばれてくるような現場にいる人はきっとどんなスプラッター映画を見ても嫌悪感恐は抱かないだろう作り手の産みだすものよりはるかに過酷を見てきているであろうし、女性がスプラッター系の映画に強いのも合点がいく女性はとにかく血が日常に存在するし個体として血などに強くないと種を守れないからだ。母性本能というものだろうか母性本能は恐怖の対象物に怖がって逃げていたら子を守れない逆にこれは恐怖に敏感ということにもつながる。恐怖を感じられないと種を守れない。これも本能だろう。逆に男は恐怖に対する体制はある程度強そうに思える未知のもの命を奪うものに対しては本能的に戦う義務があるのだ、そしてその結果流す自分の血は痛みであり死だそれは同時に種の崩壊であるから当然怖いものだ、ただ男にとって血は日常的には無い樹🆊制は痛みに強くないといけないけないのだ女性という生物は、最終的に出産という血と痛みの極致のような体験に耐えるように設計されているに違いないからだ
戦いの末の結果でありむしろ高揚感があるものだろう、自分の血にいちいち怖がっていたら戦いに負ける、しかし、同時に自分の血、肉体破壊強大
な敵未未知の敵に恐れを抱かずぶつかっていくのも死に直結する、しかしそれを全面否定ばかりしていては戦えない。男ははきっとそういうモンスターに対する耐性は強いのだと思う。男の本能は戦いと破壊だろうそれが男の究極の使命だ相手mp肉体破壊や血は恐怖してはならない、むしろ求めていくものなのだ、ソレが男の性(さが)だ。
そう考えると男はホラー映画を本能的に求めるしそれは安全な戦いの訓練だ。
助成は恐怖を体験する、克服する必要は無い。スラッシャー系は嫌悪だろうし、スプラッターは本能的に強いし、こっちのほうが、種を守る訓練になるだろう、とにかく女性は血や肉体破壊されたものを直視できるように訓練する必要性があったのだ、そうしないと子や、戦いで傷ついた、戦士を癒せないからだ
こうして考えていくと人はホラーを本能的に求める、しかし性別により
求める目的は違うのだろう。女性とホラー映画を見るのにモンスタースラッシャーやオカルト、等を選ぶのは間違いだし、男性にスプラッターをを見せるのも違う、となる、ただし、両方とも種を維持するには必要な要素(死を怖がらない立ち向かう)ということだと思うのでホラー映画はデートむびーとしていろんな本能を刺激していいものなのかもしれない、種の存続を強く刺激しそうだしなあ
そして笑いだ、これも、日常を破壊するもので間違いない、
しかしこっちは命の危機を感じさせない想像を超える、日常常識を超えるものだ、だから人は、ほっとした時に自然に
笑みが出るのだ。これは悪い方向に考えを巡らせていた時に、安心、平和という、強い現実を知った時に起こる自然な本能の肉体的反応だろう
だから笑いを人は本能的に求め、辛い厳しい日常を生きている人は笑いという安息、安心、解放を求めるんだと思う、現在お笑いがもてはやされるのもあまりに人の心がプレッシャーにさらされ続け解放を求めているんだろう、そしてその開放の汎愛ベクトルにあるのがホラーなんだろう、安全な恐怖という心の解放、
こういった心のベクトル方向の違いの解放というものであるために
遊園地、テーマパークといった兵平和と笑いの国の中に昔から、
見世物小屋お化け屋敷、絶叫マシンといった逆方向のものが成立しているんだろう。
それこそ緊張と解放という強い落差だ。それゆえ余計に人は強い楽しみ安心が残る。
コメディーとホラーを同時に求める世の中は現在社会の不健全さの象徴じゃあないかと思う。
こういうふうにベクトル論で考えると見えてくる現象がある1980年代ホラー映画全盛期に度を超えたホラー映画は笑えて来る
と言われる現象があった。自分の記憶では「リ・アニメーター」「邦題)死霊のしたたり」なんかの評論で見た記憶あり。これはゴムで考えるとわかりやすい。マイナス方向に強く引っ張ったゴムを離すとプラス方向に行くだろう。
之と同現象が、お笑いの世界でも起きた、これは一時期笑いの天才として、もてはやされた「松本人志」氏のお笑いだ。彼の産みだすプラス方向のゴムは、一周してマイナス方向にに向かいだしたそれはもう狂気じみた理不尽な世界に世界に突入しもう恐怖に突入していった、恐怖を超えると笑いになるのだ。
そして松元人志の笑い世界はどんどんレベルが高くなり笑いが分かるかどうか?ってところにたどり着く。これは日常や常識を破壊するのお笑いなのだと考えればわかりやすいお笑い人が万人に笑いを与えるためには世間一般の常識が必要なのだ、ゆえに良く習った作りこまれた笑いは強い常識との乖離が必要となる。天然、と言われるお笑いは、日常世界とのギャップが何も作らなくても発生している人たちだろうと思う。職業として社会人としてやっているうちにその非常識は失われてゆきそれを取り戻さないとあえて非常識を作り出す
でもそれは日常の常識、社会を十分に知らないとギャップを作り出せなくなる、知れば知るほど天然性は失われてゆくという矛盾。ゆえに、お笑い世界に長くいる人は、最終的にみんな、小難しく社会常識をコメントするようになるのでは、と考察される。
松本人志の笑いを理解するためには彼のもつ常識感を理解できるレベルに達していないといけないのだ。ギリギリタイトロープの日常感。世の中を考えずに無意識にだらだら生きている人にhs彼の笑いはもう理解できないのだ。アメリカのコメディーが日本人には通用しないように。
彼のその綱渡りの世界観をアートとして表現しちゃったのが、彼の映画だろう、アートというのは常にそうだ、万人には理解されない。ピカソがそうなように、ジミー大西が理解不能なように。ジミー大西が面白いのは、彼がずっと、これん🆊心象世界が見せるアートの様にいつまでも天然の不条理さを失わなく、一般人との乖離が大きいからだろう。しかし松本人志は違ったベースにはあんな不条理さを持っていながらあまりにもか賢かった・・・。それの学習能力の速さと、手ベルの高さに時代はついて行けなかったと思える残念なことに彼のアートを表現し得る舞台はお笑いにしかなかったんだろう映画界に彼のアート表現を理解できる人はいなかったんだろうし世間は彼の映画をアートとして見ずにお笑い作品だろうというレッテルを張ることしかできなかったんだろう。
現代アートが万人に理解できるか?そして天災は自分の生き方までをアートにして商売にならない、としてしか理解できない商業人に切り捨てられた。彼の最後のアートはきっとじゅぷ式の枠に収まらない一世一代の破天荒だったんだろうじゃあなかろうか。