青空を目指して2

どこまでも続く日々日常。ゲーム・音楽好きのおっさんの半生。日々日常とちょっとだけ思ったことの日記。

脳出血の記録

自分の脳出血~現状までの記録発症するまでは妻だけが生きる一筋の光になってはいたものの結婚するまではギリギリ生きてはいたもののなかなか生きてゆく意味を見出せず仕事でボロボロに痛めつけられセルフネグレクト状態で自分を痛めつけ続ける状態糖尿病をセルフケアだけで推し進め血圧も180に達するが薬も飲まず放置、毎日暴飲暴食、それだけをストレスのはけ口にして何とか生きている状況今思えば本当に自殺状態ですブログにも書いてるんですが、あとのことなど何も考えない緩やかな自殺状態でした。そのくらい、あの頃は仕事に追い込まれていました。仕事しか生きている意味がないのにそれに追い込まれるだけの日々…。そしてついに発症。その日は起きるべくして起きたのです。その日もいつものように、暴食をしてワインを一本空け意識朦朧でオナニーをしていたようです…最悪ですね。血圧も上がりますわ…。さらに問題だったのがどうもその時自分はコロナも発症していたようで発熱もあったようなのです…。様子がおかしいと見に来てくれた妻が即救急車を呼んでくれ低地名をつなぎ留めました。ほんとに蜘蛛の糸です。この時のわずかな記憶はどうも、吐きそう…と言っていたらしく。救急隊の人に抱えられながら吐いていたらしいです。なんかうっすら記憶があります。運ばれて病院に入ってからの記憶はほとんどありません。ただ、出血量が多い、ってことを言われこの時CT画像を見せられたのかもしれませんが記憶があやふやです。なんか「やばいなら速攻で手術OKお願いします」のようなことを言った記憶があります。其の時は手術は行われなかったのですが。理由は覚えていません。とにかく通常の出血量の致死量の3倍くらいの出血量があり普通なら即死だったって説明をこのときか後日に聞いた記憶があります。そしてCTの写真を見せられて。脳出血って自分の感覚では脳の一部に白い影が映っている、ってイメージだったのですが、自分のものは脳全体が真っ白で、なんじゃこりゃ!って思った記憶があります。で、看護婦曰く、翌日の朝無事目を覚ました自分は幼児退行起こしていたのかもともとの気質なのか「僕の左手がない…」と言っていたらしいです。これを言っていた記憶はないです…今でもこの話を聞くとウルっとします。その後しばらくは、記憶があいまいな日々です。結局今わかっているのは、重度の右脳出血で後遺症として左半身の片麻痺が出たということです。ちなみにこの出血量で生き延びたのは、糖尿病のせいで脳が委縮していたらしく空いていた空間が人より多かったのでそこに血がたまったということらしいです。世の中何がマイナスになって何がプラスになるかわからないですね…。こうして僕は、右脳をやられ生き延びたのです。当然リビングデッドです。さらに運が良かった?のは左脳にはダメージがとても少なかったようで、言語障害や、高次脳機能障害が少なめで、発症直後からしっかり思考ができ、喋れたのが幸せでした。これで妻とコミュニケーションが取れたのが現世との数少ないライフラインでした。そしてそれをサポートしてくれたスマホとラインが自分が唯一の蜘蛛の糸でした。このころからもう妻にべったり依存です。このころ急性期はコロナが全盛期でほとんど面会もできませんでしたし。猶更蜘蛛の糸です。そして、急性期の病棟はコロナの隔離病棟も兼ねており看護師はとても忙しく(しかしその頃の僕の脳ではそんなことは理解できず)大暴れです。泣き叫びです)しまいには看護士が相手してくれない!と警察を呼ぼうとしたこともありました。実際に呼べたかどうかは覚えていませんが。とにかく妄想が強く大変でした。妻や関係者には大いに迷惑をかけていたようですが断片的な記憶しか残っていません。そして数か月後?に回復期の病院に転院することになります。この頃もまだ感情や思考が不安定です。強い鬱な傾向もあったようです。心もかなり不安定でしたし、体も車椅子はリクライニングのやつだったし、ここにもしっかり座っていることができず、隙あらば滑り落ちそうになっていました。そして。左手が全く動かないのが辛く転院直前には長下肢装具を作り何とか立ててたのかもしれません。とにかく担当医には今後は良くても寝たきり。歩くなんて無理無理。と言われた記憶があります、毎日号泣していました。とにかく妻との通信と食事だけが毎日の楽しみでした。リハビリも楽しみでしたけどね。このころはまだリハビリに対しての理解度は低くて毎日の暇つぶしくらいの理解だったと思います。最初の頃はベットにまっすぐ座っていることができないのでそこからの訓練でしたね。そして、そのうち、車椅子への移乗訓練です。このころは日々できることが少しずつ増えてゆきリハビリが楽しかった記憶があります。そのうち長下肢装具での歩く練習がはじまります。初めて元木はよく覚えていますPTに両脇を抱え上げられ足を進められながら病棟の廊下を数歩進んで、ああ、また歩けるんだ!と、号泣しました。とにかく感情が不安定なので何かあるたびに大号泣です。今思えばそれもストレスのはけ口だったんでしょうね。そのうちに、ベットに座るのも安定してきて、体のフィジカルができてきたんでしょう、普通の車いすへ乗る許可が出てこれも嬉しかったですね。左手が使えないので右手と右足だけで移動でしたが人の手を借りずに自分の行動範囲が広がることがうれしかったです。おかげで食事が、ベットの上からホールになりましたし、トイレにも行けるようになりおむつ生活からの解放これがかなりうれしかった。おむつはほんと嫌でしたしね。そしてそのうちに、お風呂の入り方が変わりました。ずうっとストレッチャーでの寝たまま風呂でしたが、これがすごく嫌で、俺はもう一生湯船につかれないのか…。と思うと泣けてきました。風呂に関しては今でも戻れていませんがね。(風呂サービスがあったデイをやめちゃったので)子の回復期の病院には大浴場があり風呂用の車いすがあり、車椅子に乗ったまま入浴でき初めて風呂につかれたときにまた大号泣したようですそして介護の人たちからお風呂で大号泣する男という称号をいただきました。こうやって日々できることが増えていくのは楽しかったです。いろんな人たちとお喋りして、スマフォで写真撮影し日々日常を取り戻し。そのうちPTとの訓練も佳境に入ってきて最初は長下肢装具と杖での歩きだったのが、プルトップの短下肢装具と4点杖での歩きになってきました。しかし左手はいろいろやってはいたけど、進化しません、これだけが不安の種でした。転院当時はほとんどなかった痙縮が強くなっていき亜脱臼も発生したりしていました。とにかく左手のリハビリは毎日左手を撫でてもらい、おしゃべりするだけの日々でした。ほんとこれは、今考えても悔しい日々です。手を撫でること自体はそんな無意味なことではないとは今はわかっていますが、それだけっていうのは困りものですせめて何か反復動作でもあれば…。この病院の当時の体制は手のリハビリはとても弱かったようですね。こっちも今の知識があれば苦情マックスだったんですがね。それで結局痰飲時には足は短下肢装具+4点杖で家の中をそれなりに移動できるくらい。外は厳しい。って感じ。左手は、今も変わらず隧道差はほぼ出ず。って状況。退院して2年以上たちますが足に関しては、一時期は装具無し一点杖歩行でもそれなりに安定して、外も短距離なら歩けるくらいにはなっていました。しかし一年前くらいに部屋の中で転倒そして麻痺側側
左大腿左大腿骨転子部骨折という重症で半年入院。という追い打ち。これで歩きは後退。今でも4点杖装具無しで不安定状態に戻りました、そしてなぜか高次脳機能障害も悪化した気がします。その後去年にさらなる追い打ちで、胆のう炎で胆のう全摘出という重症で入院。ここでまた歩きも精神もも後退となかなか進歩が身につかない。今年さすがに妻の支えのおかげでなにもないですが、今年こそは救急車に乗らないという目標で日々進んでいます。