青空を目指して2

どこまでも続く日々日常。ゲーム・音楽好きのおっさんの半生。日々日常とちょっとだけ思ったことの日記。

振り返りまとめ

専門学校最後の年は就職活動はまともにせず結局時間切れで田舎に帰る。春から田舎で自動車学校のインストラクター見習いで就職。しかし入った会社の内部は変な宗教染みていて朝礼でアカシックレコードについて語られたときはほんと困った。ここで第一種の自動車免許を取得。最終的にこの資格があればつぶしがきく!と何年間言い続けたことだろうか?いまだに使ったことはない。夏ぐらいにインストラクター試験を受け無事落ちた。それを機に学校はやめた。
そして大阪の学生時代の友人Uのつてでコンピュータ系の会社を探す。時期はまさに就職超氷河期真っただ中。なかなか仕事はなかったが現場面接が通ればうちで雇ういう会社に巡り合う。大阪の小さなギフト屋さんが技術系の営業の爺とそこの現場の社員を数人引き抜いてつくった技術派遣の部署だった。当時面接は4次受け、5次受けは当たり前。苦労して大阪のU氏の家に居候したりしてなんとか無事現場(C社)に受かりその会社にも入社。一年ぐらいはその会社で社会人として働いた。
一年ぐらいしたときにこの部署の営業の爺とその右腕として一緒にやっていた人がギフト会社に対して謀反を計画。しかしその謀反がばれ(経緯はもう忘れた)ギフト会社社長が激怒。派遣部署全員に突然解雇通告が届く。まぁでもそもそも謀反を計画していたので営業の爺はすでに見受け先を探しておりそこに全員に移ろうと計る。しかしさらに右腕君がここで爺に対して謀反を起こす。爺以外のメンバー全員を引き連れて新会社を設立。そこで爺を洋ナシとして決別。爺はなすすべなくその後どうなったかは知らない。どこかの会社の営業していたような話を聞いたか…。実際この時期はうわさを聞き付けたほかの会社から極秘で引き抜きの打診があったり、いきなりこの業界の質の悪い政治トラブルに巻き込まれまくり心底疲れた。思えば俺の波乱の歴史はここから始まっていたな…。
無事謀反を成功させ濡れ手に粟で新会社を起こした右腕君は社長となりじきに現場作業をやめ事務、営業に専念するようになる。今思えば正直何やってたのか怪しいもんだ。営業の仕事なんかほとんどなかったはずだし。実際現場の作業が終わった時に営業に入った社長はすごく印象が悪かった。営業活動自体日常的にやっていないから仕事が見つからない。調子が悪くなってくると機嫌が悪くなり、下の人間に強く当たるようになる。今でいうパワハラだ。4年ぐらいは最初の現場は仕事がなくなってきて抜けることになる。一緒に入った友人のU氏とも別な作業場へ。
ここで我が人生最も凶悪な通勤を味わう。電車を2回乗り継ぎなかもずへ。ドアToドアで2時間30分の通勤。なかもず駅から工場への歩きも結構な距離だった。ここで入っていた会社は嫌いではなかったがとにかく通勤がきつかった…。この辺の反動で通勤に時間をかけたり、電車がどんどん嫌いになってゆく。それでもここの仕事はそんなに揉めることもなく、PJが終了するまでしっかり働けた記憶がある。
その仕事が終わった後、仕事がなかなか見つからない。社長の圧力はどんどん強くなる一方。そもそも社長の営業力ではいい仕事が見つからない。最終的に俺氏のつてで俺氏の会社をうちの会社に紹介し、営業させその現場へ行くようになった。思えば俺氏とは就職最初の現場からの長い付き合いだ。この辺で一緒に入社した俺の友人U氏がとち狂った。社長と馬が合わなくなり会社を辞めマルチ商法にはまった。学生時代からずっと友達だったU氏との決別や、会社のやり方にどうにも納得がいかなくなった俺はすっかり鬱気味に。仕事自体もトラブルメーカーのできない人と一緒に仕事させられやっぱりうまくいかず。そのごもう一本短期の仕事をやる。その辺で身の回りのいろんな変化もありもう無理って思うようになりU氏の退職をきっかけに自分も最初の会社を辞めてしまう。
しばらく休養してその後ゲーム会社に就職。しかしこの職場も長くは続かず。っていうか1年ぐらいで会社は潰れた。この時代ゲーム業界は転換の時期だった。アーケードゲーム文化が廃れていき、家庭用とパチンコの開発に遷移するしかなかった業界。家庭用もどんどん肥大化ばかりしていって小さい会社ではなかなか太刀打ちができなくなっていた。その会社もアーケード中心だったが鞍替えがうまくいかずにあっさり潰れた。っていうか、細かい事情は知らないが転がされた印象あり。昼一全員に集合かけられて潰れる旨を説明された時が忘れられないね。なんか俺の人生こんなの多いね。潰れた後何か月かフォローで高給もらって働いたなぁ。辞めた後はせっかく夢の業界に入ったけど理想と現実の差に打ちひしがれ、なんもやる気がなくなりまたしばらくの休養。
その後ネットゲームでの知り合いだった人にちょっと別業界(電気設計)の仕事を一緒にやらないか。と声かけられる。当時なんかすごい簡単でバブリーな仕事があるから一緒に会社起こしてやろうと。まじめで面白い人だったしゲームでの付き合いは長かった。熱意に負け一緒に働き始めた。そのひとはその仕事を長くやっていてかなりバブリーだった。始めた当初数か月はその仕事があってその恩恵にあずかれたのだが、すぐにその仕事出している会社が方向転換してしまいあまり仕事が出なくなってしまう。それでもいろいろ電気系の設計を覚えいろいろ作ったりしていたのだが、結局一年で俺の仕事が尽きてしまう。なんか自然消滅するように俺はその会社を去った記憶がある。なんか寂しい終わりだった。それ以来その人とは一度もあっていない。なんかちゃんとお礼ぐらい言いたいかもしれないな。
なにをやってもうまくいかず心身ともに疲れしばらく休んだ。このころにはもう適当に働こうと適当な派遣系会社に入社。最初はたしか野洲の山の中の大工場に。経歴が電気設計で売り込まれてしまった最初からアンマッチな仕事だった。とうぜんあんまり仕事はできず、通勤の難易度も高くて。しまいには仕事ができないことを現場で責められ切れてその職場を抜けさせてもらう。なんか綺麗に終わらんよな。派遣会社自体は辞めたわけではなく次の仕事として今来ている職場に行くことに。ここではいろいろと理不尽な思いはしたが車通勤を始めたりした。最終的には現場で車通勤を止められ、仕事がなくなってその現場はこっちからの働きかけで抜けた。
その後数か月面接をたまにしたりするがなかなかうまくいかず自宅待機をしていた。自宅待機していても給料は満額出たし、ボーナスも満額出た。その辺はなかなか良い会社だった。しかし裏でいろいろ動きがありその会社をやめることになる。実はこの会社も俺が辞めた直後に親元の大会社で大スキャンダルがありグループ崩壊して会社もなくなったようだ。
裏で動いたのは俺氏の。当時現場で仕事メンツを探していた俺氏が俺をフリーで雇うからこっちこいと誘ったのだ。会社に辞表を出して無事退職。ここから俺のフリー人生は始まる。この仕事で俺の仕事スキルは一気にアップした。結構背水の陣だった。ここでなんとかならなかったらもう田舎に帰ろう、という気概で職場に向かった。おかげですごくいろんな仕事を覚えてしかもお金ももらった。つるめる友人も増え、やっと来た人生の春だった。しかしこの仕事も4年ぐらいで打ち止めだった。降って落ちたリーマンショックで大不況。うちの業界超萎縮。やっていた仕事はサプライヤーが撤退を決め仕事がなくなる。ちょうどこの時期に俺の糖尿も発覚。仕事を狂ったようにやっていたが、食生活も狂っていた。何も考えずとんでもない量の飯を毎日食っていた。俺の体はもう限界を迎えていた。
それでも俺氏の会社で一年ぐらい別な業務やった。ここでの仕事はきつかったが楽しいこともいっぱいあった。
最後の仕事がちょうど切れたときに、俺しばらく休んでもいいですよ、ってマネージャーに話したらそ「うですねぇ」となし崩しに厄介払いされた。そのころ俺氏はマネージャー層から外されておりすでに俺を引き留める権限もなかった。ちょうど三陸地震津波があった日だったなぁ。いろいろ考え方変わったわ。なんか人間いつ死ぬかわからんしもっと気楽にテキトーに生きるのもよいかと思いだした。

しかしながら俺氏と個人的な付き合いが終わるでもなく、ずーっとつるんではいた。そのうちに俺氏の知り合いのつてで大阪の小さな派遣系の会社へ。そこからゲーム系の仕事を受ける。しかしここでは会社の仕事は強烈なパワハラ+契約が終わろうとするたびに延期の嵐。俺は営業ともうやだ、言うてるのに抜けさせてくれない。さらに会社の中でのいろいろとした人間トラブルに巻き込まれる…。
ほとほといやになっていたころに一番最初の会社で動機だったもう一人の友人から声がかかる。いろいろと手段を尽くし、現場の作業はなんとか終わらせ、大阪の派遣会社とはおおもめしたがなんとか抜け、何年かぶりにフリーに戻る。そして一番最初の現場の会社C社に世話になることに。最初はこの友人と一緒に仕事を2年ぐらいやったのだろうか。結構楽しかった。しかしそのぐらいでC社がその仕事から撤退。俺は抜け、一か月ぐらいの休みを。
その後またC社からN社へ。ここの現場もきつかったのだがいろいろ新しいことを覚えた。1年ぐらいはうまくやっていたんだがそのぐらいで超パワハラ上司と対立。さっさと抜けた。
そしてその後C社から直近のM社の現場へ。ここでは最初からとにかく絶対無理をしない、頑張らない、欲張らない、を信条に、できる限りひっそり地味にやっていくことを心に誓う。そこから5年以上そこでやって今年の8月で抜け。事業がどんどん先細りになる中長く延命させてくれたが、最後はすっかりC社と折り合いあが悪くなり、C社のリーダーにパワハラ受け、さらに仲介の社長さんに愛想つかせあたらしい寄生主を探し、今に至る。この時期もいろいろあったが、もうすっかり生きるのをあきらめていたところで嫁ちゃんと出会いなんとかギリギリ持ち直す。とても大きなものを得たがそこまでで失った代償もかなりのものとなった。ほんと俺、よく生きてるな…。

こうやって振り返ると、自分て他人の助けで生き延びてきた人生だったな、と痛感するね。自分自身やっぱり基本ダラでテキトーでわがままで。ほんと自分の思い通りにいかないことがあるたびにキレて喧嘩してボロボロになってを繰り返しているね。もう癖になっているんだろうね、だからやっぱり束縛の少ない、迷惑をかける人の少ないフリーランスが楽でいいんだろう。