青空を目指して2

どこまでも続く日々日常。ゲーム・音楽好きのおっさんの半生。日々日常とちょっとだけ思ったことの日記。

ピンボール

たぶん存在は結構みんな知ってるだろう。でももう最近の若い世代は実機で遊んだことが無い人が増えてるんではなかろうか。昔は遊技場には1〜2台ぐらいとか結構置いてあって、ボーリング場とかにも置いてあって、わりとマイナーだけどそばにある存在だった。90年代に格闘ゲームの大ヒットによりゲーセンの大ブーム。町にはすごい数のゲーセンが誕生。規模も極小から巨大な規模までさまざまな施設がほんとにひしめき合うように存在してた。ゲーマーにとって蜜月のいい時代だった。そのころには海外有力ピンボールメーカーのピンボールもジャンジャン輸入されゲーセンに設置し、その派手やかさでゲーセンを輝かせていた。さらにそのブームに乗っかり日本のゲームメーカーのデーターイースト、カプコンセガ(ここは古株だが)などもこぞってピンボールを作成。さらにゲーセンに花を添えた。90年代。それはまさにゲーセンがバブルを起こしていた時期だった。
90年後期ぐらいからビデオゲームはだんだん衰退。音ゲーブームがやってくる。まだまだこの頃はゲーセンはにぎやかだったが、ビデオゲームの衰退、プライスゲーム、プリクラ、音ゲーなどの大型筐体がゲーセンのスペースを圧迫。このころからゲーマーはだんだんゲーセンから排除されてゆく。それに伴い日本でのピンボールの扱いはどんどん低く。もともとメンテしないとどんどん壊れていく機械物。その数は減ってゆく。
さらに2000年代を迎え、音ゲーの衰退とともにゲーセンは一気に冷え込む。町にあれほどあったゲーセンはだんだんと数を減らしてゆく。リーマンショックでついにゲーセンは完全にその終焉を迎え、細々とマニア向けに頑張っていたゲームセンターも、なんとなく世間の片隅で生き残っていたスルメみたいなゲーセンも軒並みその姿を消してゆく。いまやゲーセン文化はほぼ潰えた。
と、ゲーセンの歴史の一歩手前に日本でのピンボール文化はひっそりと幕を閉じていたと思う。輸入ゲームはほとんどなくなり、国産もなくなり、ゲームセンターもなくなり、プレイできる場所が無くなってしまった。ピンボール自体が無くなってしまった。
90年代のまだ若かりし頃に、薄暗いゲーセンの中で極彩色に彩られ、ちょっとイカレタアートワーク、ど派手なギミック、その中をものすごいスピードではじけ回る銀玉。この魅力にすっかりやられ、よくピンボール台を殴る蹴るして遊んでた。殴る蹴ると言っても別に破壊行為ではなく、ピンボールってそうやって全身使って機械を揺らしてプレイするものなんです。数プレイするとクタクタ。そんなものなのです。ほんと好きでした。
でも自分も社会人になって、だんだんゲーセンに行く頻度も減り、それと同じようにゲーセンも減り、気が付くと自分が好きだったゲーセン文化はどこにもなくなっていたんです。
つづく。