青空を目指して2

どこまでも続く日々日常。ゲーム・音楽好きのおっさんの半生。日々日常とちょっとだけ思ったことの日記。

共依存

共依存関係において、そのパートナーの欲求を果たすために極端な自己犠牲を行うことが共依存者の目的となっている。共依存関係は不健康な関係であり、本人は自律性・自給自足することができず、自分の充足を果たすことを最愛のパートナーに依存している[13]。自分よりも他人の人生を無意識的に優先するというのは、多くの場合では自分の価値を他人に依存しているのであり、それは誤った考えである。

WikiPediaより抜粋
共依存って言うのがたいていこういうタイプの人間が自己愛の強いわがままタイプと合致してより相手のわがままを引きだししまいに崩壊する。いや、まぁ崩壊するのは自己犠牲のほうだけなんだが。まぁそれはそれでお互い未熟と言う事で。
ただね、こういうタイプ同士の時ってやっぱりうまく行かないんか?とか思うんだ。たぶんね、こういう人同士だと相手に何かしてあげたい(=やることで相手が喜び、自分は存在していいという存在理由を与えられる)ただ、相手は相手で「いやいやそんなこといいよ。そのぐらいは僕がやるよ」となる。でもこれは相手の提案を断り、相手の存在を否定しているのではなく、こっちはこっちで(そのぐらいの事は自分でやってあげる、相手にはもっと楽して欲しい。また自分がやるという事で、相手から認めてほしい)と言う、ある意味相手に自分を認めて、と言う、お互いに相手に認められること、そのための自己犠牲って言うのが根底に流れていると思うんですよ。
お互いに自分が他人のために動くのは自分の存在価値のためなんですよね。ただ勘違いしがちなのはお互いに自己犠牲を発揮する場所を取り合いになっちゃうてきになって、お互いに相手を必要としてない?と思っちゃわないかって勘違い。自分のため、と言うのは確かにあるがそこには必ず相手に対する思いやりが存在しているはずだと僕は思うんです。その人の事が好きだから尽くしてあげたいって言う単純な思いがね。でも相手も同じ。相手も相手のことを想って相手に尽くしてあげたい。
これって実は自然な関係なはず。お互いを縛りあわず、お互いに依存しあわず、お互いが自己として確立しており、お互いを思いやるという部分で関係を作る、ごく当たり前な大人な関係。
自分がやっぱりどっちかって言うと、自分の価値を他人に依存する傾向がある性格ゆえ、こういう事に悩んじゃうんですよね。つい自分中心に物事を考えてしまい、独善的になり、自分のために勝手に差し出した手を、また空いては相手で相手のことを考えたうえでその手を必要ではないとしているはずなのに、相手のことなど考えられず、ただ自分の手が否定された、と言う事実のみに落ち込む。自分が否定、拒否された。自分が相手の都合も、相手の意図も何も考えずに出した手のはずなのに、勝手に相手は喜ぶはず、受け入れるはず、だって相手のための行動なんだから、と思いこみそれ以外の要素を考えず、ただ拒否される事実を恐れ、ひどいときには相手に拒否された理由を責任転嫁してしまう。
ちょっと前ぐらいから自分は良くこんなことを考えるようにしている。例えばだれかと二人きりになってしまったときに、お互いに会話が弾まない。会話すら発生しない。たぶんありがちな日常のワンシーン。でも昔はこういうシーンでこう思ったもんなのです。ああ、自分手なんて会話下手なんだ。なんかうまいこと喋って盛り上げないといけない、この人何が好みなんだろうな?わかんねぇ、切りだすネタがわからね…。困った。自分貧弱だ…。とループに陥りしまいに自己嫌悪。こうでした昔。でも今は違います。まてまて、そもそもなんでこの沈黙が俺一人のせいなの?相手だって話切りだしてきてないよね。盛り上げることしてないよね。この沈黙は二人で作りだしている現状なんだよね、なんでそれを俺一人で気に病む必要があるの?相手がこの状態でいいと思っているならこれでいいでしょ。自分だって別に無理にネタ作ってまで話したくないし。ほんとに相手とお話したい、と思うときはたぶん心から相手に求める会話ぐらい自然に出てくるわ。相手も一緒だ。ってね。そう考えるようになってすごく楽になった。自分だけではない、相手と言う存在を強く認めるからこういう思想になる。自分だけだとプラスもマイナスもすべて自分に跳ね返ってくる。そう気づき考え方を変えたんです。
別に相手を想うことと言うのは、自分を認めてもらう事ではないんですよね。そりゃねちゃんと自分を認めて、自分を見て、とは思うけど、良くがんがえてみるんです。最近。自分のやってる行動。好意を持っている相手、友達、仕事仲間、そういう全てにおいて自分の示す態度。それを冷静に見つめてみる。そしてそういう視点で相手も見てみる。ああ、おれが相手を認めてると同じように相手も同じなんだ。お互いにそういう露骨な手を出して、頭をなでなでされるような関係ではなく、そこにいる事でお互いを認め合っている、ってことがわかってくる。それが初めて大人として独立できた人格って事なのかって、気づき始めたんですね。
自分を注視してもらえないと自分が成立しないんではない。自分が成立するから相手も自然に見てくれる。それが自然な人間関係なんだとね。

まぁ、なんてこんなことを書いたかって。そうこういいながらいまだに引きずられる部分があるからなんですよね。社会において自分はだいぶそういう立ち振る舞いをできるようになってきたけど、それ以外の部分はやっぱりいまだ未熟、おこちゃま。だからこうやって自分の考えをまとめてみているんですね。いつか、そう、いつか、そういう、自然にお互いを思いやれる、そんな関係性が築けるようになっていきたいです。いや、なろう。