青空を目指して2

どこまでも続く日々日常。ゲーム・音楽好きのおっさんの半生。日々日常とちょっとだけ思ったことの日記。

メトロポリス完全版

白黒の無声映画ですよ。1927年上映とか。
普段は書く必要がないので書かないあらすじだけど、まぁあんまり見る機会のない映画だろうしまとめておく。


地下で死んだように群れて機械の一部となり働き続ける労働者と地上のメトロポリスで贅の限りをつくす支配者層。その頂点にいるフレーダーセン。その息子のフレーダー。フレーダーが乱痴気騒ぎで遊んでいるところに突然マリアと言う女性が乱入しフレーダーはマリアに魅了される。マリアが地下階層にいることを知ったフレーダーはマリアを探し地下に潜るがそこで見たものは道具の様に使い捨てられる労働者たちの悪夢のような現実。自分の知らなかった世界に打ちのめされるフレーダーは力尽きそうな労働者と入れ替わり労働をする。労働者たちが仕事上がりに向かう場所があり、ボロボロになったフレーダーは労働者たちと共にそこに向かうと、そこにはマリアの姿が。マリアは平和を説く宗教家だった。人々は心酔していた。フレーダーと再会したマリアはフレーダーが媒介者であることを見抜き、救世主現ると喜ぶ。マリアは手(労働者層)と頭脳(支配者層)が理解しあうには心(媒介者)が必要だと説いていたのだ。しかし、この様子を父フレーダーセンとマッドサイエンティストのロトワンガがでばがめ。フレーダーセンは労働者層のこれから起こり得る労働者層の階級闘争を強引に納めるために、労働者層にわざと暴動を起こさせそれを強制的に鎮圧しようと考えた。その引き金引かせるために労働者層の女神だったマリアを利用することを提案。ロトワンガはマリアをさらい自分が開発していた女性型ロボットにその容姿をコピーする。ロボットマリアはまりあとは正反対の性格で、聖書7つの大罪を具現化するように動く。支配者層をその色香で混乱に落とし、さらに労働者層に機械を破壊するように暴動を煽動する。熱狂した労働者たちは暴徒となり地下施設の破壊を始める。地下施設が破壊されるとメトロポリスはその機能を停止。そのために地下で冷却用に使用されていた水が溢れ出し地下都市(労働者の町)を破壊し始める。
ロトワンガの基地から逃げ出したマリアは現状を知り、地下都市に残されていた子供たちを連れて脱出することにする。ここでフレーダーはマリアと再会。2人は助け合い子供たちを崩れ、水没してゆく町から地上へ救出。
その裏で暴徒と化し機械が破壊されたことに狂喜乱舞していた労働者たち。既にロボットマリアは逃げ出しそこにはいない。狂喜乱舞していたところをもう一人の労働者のリーダー的存在が労働者たちに町が壊れている事、子供たちが危機であることを告げる。そして「マリアは魔女だ!魔女は殺せ!」と新たに労働者を煽りまくり、今度はマリアを殺せ!で暴走し始める労働者たち。
子供たちを無事救出し休憩していたところに暴徒と化した労働者が現れマリアを追い回す。その頃支配者層で絶望的な彼らを煽りまた乱痴気騒ぎをやっていたロボマリアの集団と鉢合わせ。本物マリアはそこからうまく逃げ出し、ロボマリアがつるし上げられ火あぶりになる。
自分の息子がこの騒動に巻き込まれていることを知り愕然とするフレーダーセン。現場に向かう。一方マリアは隠れた先でまたロトワンガに「お前はオレの理想の女じゃぁー!」と追い回される。
火あぶりにされているロボマリアを見つけ絶望するフレーダー。しかし皮が焼けるとなかからロボットが。追われているマリアに気づいたフレーダーはロトワンガと最終決戦。ロトワンガを倒し、マリアを救出する。落ち着いた全員。労働者層のリーダーとフレーダーセンが和解しそうになるが、どうしてもお互い意地を張り握手が出来ない。それを見たマリアがフレーダーに「あなたが媒介者です。手と頭脳をつなぐのは心です」と諭し、二人の間に入るフレーダー。フレーダーに導かれ握手をする2人。ハッピーエンド。


実際のところ無声映画なので台詞はかなり少ないです。所々で説明や台詞が文字で挿入されます。全編バックにはシーンごとのBGMが流れ雰囲気を大いに盛り上げてくれます。台詞が無い割には何となく言いたい事はオーバーアクション気味の俳優の演技と、画面演出で伝わってきます。流石にメインテーマである「手と頭脳をつなぐのは心です」っていう部分は文字で始めと終わりにきっちり書かれますが。
100年近く前の映画でありながらSF美術がそれほど古さを感じさせません。特に女性ロボットは現代でも普通に見れるデザインです。っていうかこれの影響が津用過ぎるんでしょうね。判りやすいところで言えば漫画「コブラ」で出てくるレディーやスターウォーズC3POと言った感じです。ところどころで出てくる小道具も悪くないし、メトロポリスの都市のデザインもほぼ全て絵ですがなかなかスタイリッシュ。
全員の演技は言葉で伝えられない分、演劇的オーバーアクションですがその分心情が良く伝わってきます。全員のアクションをすごく集中してみることが出来ます。画面演出やSF演出も凝っており、案外派手な出来です。
何よりストーリーが古臭さを感じさせないですね。歯車として扱われる労働者層と支配者層との軋轢なんて今と全然状況変わっちゃいません。職場に向かう労働者たちが全員うつむいて死んだように同じ方向に向かっていく描写は、大きな駅では毎日見ることが出来る光景でちょっとぞっとしました。


最近家で大画面で映画見るようになって強く感じることがあります。映画は映画なんだ、と。当たり前のことのようだけど、最近の多くのプロじゃない人たちのレビューと言うか感想を見ていると映画を小説や漫画と同じもの、またはその延長にあるものと捕らえている人が多い気がしてなりません。すぐにストーリーだけを追いがちです。お話の良し悪しで映画の良さが全て決まったる様な印象を受けます。個人的にはこの風潮は疑問を感じてなりません。1時間〜2時間程度の展開の中でそんなに緻密なストーリーなんて構築できないと思うんですよ。面白いストーリー、脚本があっても純粋なお話の面白さを知りたいなら小説メディアのほうが圧倒的にストーリー精確に、いいたい事を伝えると思うんです。
映画はそういうものではなく、その動く映像、演出、音楽などで感じてみるものだと思うのですよ。文字でも言葉でもなく映像で伝えるものなんだと思うんですよ。だから一般的にこういう映像メディアで感情、解説などを言語化してしまうのはナンセンスな演出とされるわけですよ。
映画のストーリは別にシンプルなものでいいと思うんだな。なんかとっておきの一つのアイデアを見せる、何かひとつ強烈な主張を映像にこめる。それで十分だと思うんですよ。直感的に面白くないなぁこの映画、ってのはたいてい映画技術に問題がありストーリーなんかどうでもいいものです。逆に凝ったストーリーなんて無くても映画技術のみで何かをきっちり主張してくる映画はいっぱいあるわけです。
ココのところ見た、キューブリック作品やこの映画なんかはまさにそういった映画らしい映画です。考えるな、感じろ。といった感じの作品群です。温故知新的なシンプルな映画を見ることで映画の力っていうのを教育されてる感じです。


このメトロポリスの映画的演出構造は今のSF映画と比べても全然変わらないものだと思います。今の映画はもっともっと自然にリアルに世界を描きますが、その分中にこめられた主張を感じ取るのはかなりの力がいる気がします。こういうシンプルな映画もたまにはいいと思います。
個人的にはマリアの演技がかなり印象的でした。聖女と魔女の二役を強烈な差で演技しています。両方から感じるエロスもチラリズムともろだし!って感じで一粒で二度おいしい感じです。途中聖書の7つの大罪やらバベルの塔の話などちょっと説教臭い気がしないわけでもないけど、このぐらい大人しいものか。

ちなみにBDの映像はかなりクリアなものだと思います。っていうかシーンによって相当画質に差があります。とてつもなくクリアなシーンから、超ノイジーなシーン(おそらく今回復刻された部分)までありますが、個人的には画質が悪い、と感じることはありませんでした。痛んだフィルムだけどなにが移ってるかはちゃんとわかるように復刻されています。音楽もシーンに合った音楽です。オリジナルの音楽なんでしょうか?

もひとつ。半分ぐらいで眠くなってそこで一回視聴を止めたのも事実。何度も見る映画でもないでしょう。